左内公園で橋本左内のお墓と銅像を見る

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左内公園の橋本左内像

福井で幕末史跡巡りをするため、青春18きっぷを使って福井の町にやってきています。

「由利公正宅跡」碑を後にし、左内公園に行ってみました。この公園には橋本左内のお墓銅像啓発禄などがあります。

 

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左内公園

福井市幕末マップ(由利公正宅跡、左内公園、善慶寺)

幸橋を渡り右折、次に西に道二つ入り、少し南に下ると公園があります。ここは②左内公園と呼ばれています。

左内公園の「左内」というのは、もちろん橋本左内の「左内」から来ています。左内公園は現在は公園になっていますが、橋本左内の銅像やお墓もあります

公園に入ると橋本左内像が視界に入ってきます。思ったよりも大きな公園です。

 

左内公園「贈正四位橋本左内墓所、海軍大将岡田啓介(福井藩士・第31代内閣総理大臣)書」

「贈正四位橋本左内墓所、海軍大将岡田啓介書」公園入口付近にあり。この海軍対象岡田啓介とは、福井藩士・第31代内閣総理大臣のことです。

橋本左内銅像

左内公園の橋本左内像

橋本左内先生像

 

左内公園の橋本左内像(拡大)

銅像の台座には「橋本左内先生の墓」と書かれれています。

 

橋本左内のお墓

左内公園「橋本左内の墓」説明文

橋本左内の説明と墓の説明が書かれていました。説明文は以下の通り

西郷隆盛を信服させた福井藩の景岳・橋本左内の墓である。

小塚原(江戸にあった刑場)の露と消えるや、長谷部弘連らによって(小塚原刑場近くの)回向院に埋葬されるが、間もなく文久3年(1863年)ここに移築された。

以前ここは善慶寺の境域であった。橋本家の菩提寺だったため、橋本左内と並んで初代長徳、父長綱、母梅尾の墓が建てられた。

参考:橋本左内の墓説明文より

この説明からわかるのは、元々この左内公園は善慶寺の一部だったということです。善慶寺は左内公園の向かいにあります。

文久3年(1863年)に移築されたとあり、安政6年(1859年)に斬首されたので、約4年後に移築されたことがわかります。

 

左内公園「橋本左内と家族の墓」

橋本左内と家族の墓。中央に橋本左内のお墓、左右に初代長徳、父長綱、母梅尾のお墓もあります。

 

左内公園「橋本左内のお墓」

景岳(橋本左内)先生の墓。景岳とは橋本左内の号のこと。

家族のお墓は結構文字も読みづらくなっていますが、橋本左内のお墓は綺麗です。作り直されているのでしょう。お墓の中央にあります。

 

左内公園「景岳先生病間同志長谷部甚平に贈るの書」

景岳先生病間同志長谷部甚平に贈るの書

説明文によると、安政5年(1858年)江戸の福井藩邸で病のため静養中であった橋本左内が長谷部甚平(長谷部恕連)に送ったもの。

※長谷部甚平(長谷部恕連)とは、福井藩士で、目付役、勝手奉行、寺社奉行、町奉行、郡奉行などを歴任。のち笠松県知事・岐阜県令。

その後、長谷部家に保存されていたが、景岳会に寄託されたそうです。

碑に書かれている内容は、「私は生きているときは忠臣となり、死しては烈星となって、永く人の世に道を示すものとなりたい」だそうです。いいことを言っていますし、その通りになってますね。

 

左内公園「橋本左内啓発禄」

啓発録。全ての碑に説明文が載っていてわかりやすいです。

この啓発録は「嘉永元年(1848年)橋本左内が15歳の時に、自分の生活を反省。自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたもの」だそうです。

  • 稚心(幼い心)を去る
  • 気を振るう
  • 志を立てる
  • 学に勉める
  • 交友を択ぶ

この啓発禄を見て橋本左内は思想家であることがよくわかりますね。

左内の啓発禄を見て我がふりを直さないといけないなと思いました。15歳で啓発ですか。自分自身の幼さを感じずにはいられません。

左内公園「左内町7」

当然、左内公園は「左内町」です。町名までも橋本左内の名前です、ビックリです。

左内公園を後にし、次に向かいの善慶寺に向かいます。