今回は四天王寺にある髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓や顕彰碑について紹介します。
四天王寺にある髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓や顕彰碑について
髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓前まで来ました。見づらいのですが、手前に説明文があり、すぐ右奥にお墓があります。その周り3つは顕彰碑です。
説明文には以下のようにかかれれていました。
「高橋多一郎は四天王寺の塔頭の一つ、秋野坊の北隣にあった茶店・春日屋に逃げますが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍・小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、後始末の費用に62両を差し出し、…切腹した。享年47歳であった。
父の死を見届けた庄左衛門は19歳であったが、父の後を追って自決した。」
まずお墓から見ていきましょう。
髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓。正面から撮影。「御霊消滅」と書かれています。
お墓には「御霊消滅」と書かれています。寺侍・小川欣司兵衛が預かったお金でお墓を建てましたが、損傷が激しかったため、1968年(昭和62年)に再建されました。確かにお墓だけが新しいですよね。
お墓右側。「父・髙橋多一郎、子・髙橋庄左衛門、万延元年三月二十三日没」と書かれています。
万延とは安政の後で文久の前になります。1860年〜1861年。桜田門外の変直後なのもあっています。
↑「贈正四位髙橋多一郎・贈従四位髙橋荘左衛門原瘞地之碑、右當(?)境内西北大黒堂ノ裏ニアリ」と書かれています。
これは四天王寺入口にあったものと内容と全く同じです。これはどうやら場所の説明で、当時は入口付近にあったのでしょうね。因みに場所は大黒堂の裏なのでここです。かなり消耗が激しいです。
「髙橋君原瘞地之碑」と書かれています。「嗚呼烈哉高橋君父子殉難…」と続く。これが顕彰碑で、上のはこの碑の案内でしょうか。
「高橋君原瘞地之碑」拡大。見やすいようにコントラスト変更してます。
「闔門殉難」と書かれています。内容は細かくて読めない;;
以上のようににたくさんの顕彰碑が集まっています。違う場所にあったものも集められたのでしょう。顕彰碑の内容は、古い漢字でかつ、西日が凄すぎて読みづらかったです;;
最後に地図で場所をおさらい
今回は幕末史の中でも少し隠れがちな人物、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門父子を紹介しました。
「桜田門外の変」は有名なのに、幕末ドラマや映画などでは髙橋多一郎・髙橋荘左衛門父子が出てこないのが本当に残念です。
もし四天王寺にもし行くことがあれば、五重塔や庭園、宝物館を見た後でもいいので、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓も見に行ってください。