四天王寺の髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓と顕彰碑について

スポンサーリンク

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓

  1. 桜田門外の変には続きがあった。江戸の続きは大阪・四天王寺にあり
  2. 四天王寺に入り、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓まで向かうルート」のつづきです。

今回は四天王寺にある髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓や顕彰碑について紹介します。

スポンサーリンク

四天王寺にある髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓や顕彰碑について

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓前まで来ました。見づらいのですが、手前に説明文があり、すぐ右奥にお墓があります。その周り3つは顕彰碑です。

説明文には以下のようにかかれれていました。

「高橋多一郎は四天王寺の塔頭の一つ、秋野坊の北隣にあった茶店・春日屋に逃げますが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍・小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、後始末の費用に62両を差し出し、…切腹した。享年47歳であった。

父の死を見届けた庄左衛門は19歳であったが、父の後を追って自決した。」

 

まずお墓から見ていきましょう。

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓。正面から撮影。「御霊消滅」と書かれています。

お墓には「御霊消滅」と書かれています。寺侍・小川欣司兵衛が預かったお金でお墓を建てましたが、損傷が激しかったため、1968年(昭和62年)に再建されました。確かにお墓だけが新しいですよね。

 

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓(右側)

お墓右側。「父・髙橋多一郎、子・髙橋庄左衛門、万延元年三月二十三日没」と書かれています。

万延とは安政の後で文久の前になります。1860年〜1861年。桜田門外の変直後なのもあっています。

 

四天王寺「贈正四位髙橋多一郎・贈従四位髙橋荘左衛門原瘞地之碑」

↑「贈正四位髙橋多一郎・贈従四位髙橋荘左衛門原瘞地之碑、右當(?)境内西北大黒堂ノ裏ニアリ」と書かれています。

これは四天王寺入口にあったものと内容と全く同じです。これはどうやら場所の説明で、当時は入口付近にあったのでしょうね。因みに場所は大黒堂の裏なのでここです。かなり消耗が激しいです。

 

四天王寺「髙橋君原瘞地之碑」

髙橋君原瘞地之碑」と書かれています。「嗚呼烈哉高橋君父子殉難…」と続く。これが顕彰碑で、上のはこの碑の案内でしょうか。

 

四天王寺「髙橋君原瘞地之碑」拡大

「高橋君原瘞地之碑」拡大。見やすいようにコントラスト変更してます。

 

四天王寺「高橋多一郎 闔門殉難」

「闔門殉難」と書かれています。内容は細かくて読めない;;

以上のようににたくさんの顕彰碑が集まっています。違う場所にあったものも集められたのでしょう。顕彰碑の内容は、古い漢字でかつ、西日が凄すぎて読みづらかったです;;

 

スポンサーリンク

最後に地図で場所をおさらい

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓の場所がわかる四天王寺内の地図

今回は幕末史の中でも少し隠れがちな人物、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門父子を紹介しました。

「桜田門外の変」は有名なのに、幕末ドラマや映画などでは髙橋多一郎・髙橋荘左衛門父子が出てこないのが本当に残念です。

もし四天王寺にもし行くことがあれば、五重塔や庭園、宝物館を見た後でもいいので、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓も見に行ってください。

関連記事:「桜田門外の変には続きがあった。江戸の続きは大阪・四天王寺にあり

関連記事:「四天王寺に入り、髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓まで向かうルート