桜田門外の変には続きがあった。江戸の続きは大阪・四天王寺にあり

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四天王寺金堂と五重塔

大阪・四天王寺にある高橋多一郎と高橋荘左衛門のお墓に行ってきました。

「なぜ水戸藩のお墓が大阪に?」となりますよね。

そこで今回は四天王寺になぜ水戸藩の高橋多一郎と高橋荘左衛門のお墓あるのかについて紹介します。

有名な桜田門外の変と大きく関係していますよ。

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桜田門外の変と四天王寺との関係

四天王寺金堂と五重塔

幕末の中で重要な事件の一つとして「桜田門外の変」があります。

「桜田門外の変」についての簡単な説明

井伊直弼の日米修好通商条約(不平等条約)締結と安政の大獄(反対派の弾圧)、この政策に対し、各藩が一気に沸騰。時代は攘夷の時代に移ります。

ここから攘夷派では無いと殺されてしまうような時代になってしまいました。

その中で、水戸藩が長州藩や薩摩藩等の他藩と交流を開始し、井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を計画したのです。

ここまでは、有名な内容ですが…

水戸藩の井伊直弼暗殺計画には続きがありました。

 

「桜田門外の変」には続きがあった

井伊直弼暗殺計画には続きがありました。実は井伊直弼暗殺と同時に、薩摩藩が大阪から京都に入り、朝廷を守護するという計画になっていたのです。

確かに桜田門外の変は、水戸藩の単独ではなく、薩摩藩の有村次左衛門も加わっていました。どうやらこの事件は、水戸藩と薩摩藩の共同による作戦だったようです。

水戸藩は江戸城で井伊直弼暗殺グループと、大阪で薩摩藩と合流するグループに分かれました。前者は皆さんよくご存知だと思いますが、後者の方を今回は取り上げたいと思います。

 

四天王寺入口付近

後者のグループである高橋多一郎は、息子の高橋荘左衛門らと大阪に向かいました。

最初、生國魂神社(いくたまじんじゃ)に潜伏していた高橋らは井伊直弼暗殺に成功したことを知り、薩摩藩が大阪に来るのを待っていましたが、残念ながら薩摩藩は来ず。

その理由は島津斉彬が急死し、島津久光に実権が移っていたからです。

いつまで経っても薩摩藩は来ず、潜伏地を幕府の役人に見つけられてしまい、四天王寺の役人・小川欣司兵衛宅で息子・荘左衛門と共に自刃したのです。

ここまでが桜田門外の変になります。

 

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最後に

髙橋多一郎・髙橋荘左衛門のお墓

前振りが長くなりましたが、このような理由から水戸藩の高橋多一郎と息子の高橋荘左衛門のお墓が四天王寺内にあります。

それでは、その高橋多一郎のお墓に行こうと思います。続きは下の記事を読んで下さい。

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