4月に造幣局の桜の通り抜けに行ってきました。
造幣局・桜の通り抜けは、色々な種類の桜をまとめて見る事ができるので、大勢の人が足を運んでいます。
この期間は混雑するので、天満橋からの一方通行になっていることから通り抜けと呼ばれています。
僕自身、平日の夜に見に行ったことはありましたが、休日の昼間に行ったのは初めてでした。なので、想像してなかったのです。こんなに混雑しているとは…
造幣局の桜の通り抜けをしながら長州藩・遠藤謹助について紹介します。
造幣局・桜の通り抜け
まず京阪・天満橋駅からすごい人人人…。天満橋もゆっくりでしか進めません。
造幣局に入ったら、少し道が広くなるので、この混雑は少しはマシになるだろうと思っていたのですが、残念ながらこの混雑のまま流れていきました。
天満橋から見た八軒家浜船着場。
八軒家浜船着場の詳細は、下の2記事をあわせて読んでみて下さい。
【関連】八軒家船着場跡近くに、新選組定宿の京屋忠兵衛跡あり。
余談ですが、天満橋を渡り、右折すると造幣局まで屋台が並んでいます。
その一つに気になるお店を発見しました。それは鹿児島うまか市という屋台です。何が気になるって、それは西郷どん(西郷隆盛)らしき絵が怖すぎるってことです(苦笑)。
ただそれだけなのですが、どうしても気になって写真に撮ってしまいました。幕末繋がりってことで…。
迫力満点な西郷どん(西郷隆盛)が主張しています。
西郷どんのアップ。リアルである。余談終わり。
やっと造幣局に入ったと思ったら、相変わらず混雑は継続中。かつてここまでの混雑を味わったことがありません。
元に戻ろうかと後ろを振り返ると、ずらっと人が密集しているので引き返すことができません。このまま進むことにしました。
人が多すぎて、写真を撮るのも一苦労です。
人が多いので桜をゆっくりと眺めるといった余裕は今回ありませんでした。どちらかというと早くゴールについてこの混雑から解放されたいってことでした。主旨が変わってるし…
土曜の天気が悪かったので日曜に集中したんでしょうね。そして、日曜は快晴。桜が満開で絶好の花見日和となったのも関係しているんでしょう。
造幣局には色々な種類の桜が集まっています。人は多いが桜はきれいです。
これらの桜は普通の桜より約2週間ほど遅れて満開になります。
造幣局・桜の通り抜けを考えたのは長州藩の遠藤謹助
で、この話のどこが幕末散歩やねんってことですが…
この「造幣局の桜の通り抜け」を考えた人が、あの長州藩・長州ファイブの一人、遠藤謹助だったのです。
造幣局長であった遠藤謹助が明治16年から一般の人達にも公開したのが、この桜の通り抜けの始まりでした。
ちなみに長州ファイブと言えば、伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、そして遠藤謹助がイギリスに秘密留学した5人のことです。
造幣局博物館。通り抜け期間中は閉館でした。残念…
造幣局は明治4年からガス灯を使用。日本で初めてのガス灯だったそうです。
明治天皇聖碑。大阪にはいたるところに現存しています。全部でどれだけあるのだろう?気になる…。
明治天皇は明治5年に近畿・中国地方を行幸されたそうです。その時に近代様式の貨幣工場、造幣局を視察しました。
藤棚の「藤」の木。明治天皇が造幣局に行幸された時に、生け花として使ったものを「挿し木」して育てたところ根付いたものだそうです。
欽明門と鉄柵。
欽明門と鉄柵について
欽明門と鉄柵について説明がありました。それによると…
明治元年、大阪府知事後藤象二郎(土佐藩)が、大阪城内に動物園を作るために鉄柵を輸入したものの、それが中止になりました。
それを聞きつけた造幣局判事・久世喜弘(大垣藩)に進言により、この鉄柵が造幣寮の取り締まりに必要だと考え、長州ファイブ井上馨(長州藩)の口利きで譲り受け、工場の周りに張り巡らしたものだそうです。
「さくらの名所100戦の地、造幣局」、通り抜けの由来と第10代造幣局局長・遠藤謹助
第10代造幣局局長・遠藤謹助と通り抜け由来についての碑
この説明によると、造幣局は明治の始めに藤堂藩蔵屋敷から移植されたそうです。
造幣局付近を古地図で確認すると、ちょうど前あたりが藤堂藩でした。
この場所は造幣局の出口の道路を挟んだ向い側です。古地図で見ると、町与力や川崎東照宮、岸和田藩辺りが造幣局ある場所になります。
最後に
今回は造幣局・桜の通り抜けを見てきました。不思議と幕末の志士達との関係が濃いですよね。
そして町与力や川﨑東照宮がなくなって造幣局になっているのもなるほどなと感じさせてくれます。
今度行くときは平日に、造幣局博物館やその周辺を見て回りたいと思います。