②松下村塾、④松蔭神社を後にし、右側にしばらく行くと⑤「吉田稔丸(稔麿)誕生地」碑がありました。
残念ながら現在は碑だけしかありませんが、「吉田稔丸(稔麿)誕生地」を紹介します。
吉田稔丸(稔麿)誕生地
吉田稔麿も神童と呼ばれていたそうです。長州藩は神童が多いですね。
吉田稔麿も高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並んで、松下村塾の四天王と呼ばれてました。
後、京都池田屋で新選組に襲われ亡くなりました。いわゆる池田屋事件です。
碑のすぐ横に簡単な説明文がありました。
吉田稔麿は、天保12年(1841年)、足軽の長男としてこの地に生まれた。松下村塾に入門し、高杉晋作らと共に松蔭門下の四天王と言われた。
松蔭の死後、尊王攘夷運動に参加し、屠勇隊(ほゆうたい)を組織した。
元治元年(1864年)、京都三条の池田屋旅館で他藩の志士と会談中、新選組に襲われ負傷し、24歳の若さで死去した。
「吉田稔丸誕生地」説明文より
早すぎる死でした。生き残っていたら、大物になっていたのではないかと、残念でならない人物の一人です。
こういう人物をかっこよく描いたドラマや映画を見てみたいものですね。
最後に
松下村塾近くにある「吉田稔丸(稔麿)誕生地」碑を紹介しました。
碑の前の説明文にもあったように、吉田稔麿の住まいが松下村塾から近かったことで、吉田松陰と出会うことになり、後に幕末の志士として活動するきっかけになったことがわかりました。
残念ながら今は家はなく、その場所に碑と説明文があるだけです。しかしこの周辺はとても当時の雰囲気を残しているので、松陰神社や松下村塾を見学した後はぜひ立ち寄ってみて下さい。