池田屋事件と言えば、新選組を一躍有名にした事件です。この事件で長州藩や土佐藩脱藩浪士等、多くの大物志士達が亡くなりました。
長州藩はこれをきっかけに禁門の変に続きます。
今回は①「勤王志士・古高俊太郎邸跡」と②池田屋事件があった「維新史蹟・池田屋騒動之址」の各碑を紹介します。
「勤王志士・古高俊太郎邸跡」碑
古高俊太郎(近江出身)は小道具・桝谷の養子となります。
桝谷喜右衛門と名乗り、志士達を援助していました。その場所が新選組に知られ捕まります。
場所は四条木屋町すぐを左に入った所にありました。現在は和食屋「志る幸」になっており、そこには①勤王志士・古高俊太郎邸跡の石碑があります。
①「勤王志士・古高俊太郎邸跡」(地図①参照)
池田屋事件「維新史蹟・池田屋騒動之址」碑
小説やドラマでは古高らがすごい陰謀を企んでおり、それを拷問の末、新選組が自白させ池田屋がわかったというのが定説なのですが、どうやらそれは違うようです。
「木戸孝允日記」によると池田屋の集いは拉致監禁&拷問されている古高俊太郎を救うための会合だったと書かれています。かなり意味が違ってきますね。
新選組は2グループに分かれて会合場所を探索していました。実際のところは場所もわかっていなかったのでしょう。
旅館・池田屋は三条通にあります。普段は土佐藩の定宿だったそうです。
昔この場所はパチンコ屋でしたが、現在は「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」になっています。かなり派手になりました。
以前ぼや騒ぎがあり、新聞の見出しが「平成の池田屋騒動?」って書かれていましたね。その店の前に「②維新史蹟・池田屋騒動之址碑」があります。
②「維新史蹟・池田屋騒動之址碑」(地図参照)
祇園祭の宵山の日、池田屋に集まっていた志士達は30人余。その中で宮部鼎蔵(肥後)、吉田稔麿(長州)、広岡波秀望(長州)、望月亀弥太(土佐)、石川潤次郎(土佐)、福岡祐次郎(伊予)、大高又次郎(播州)等が亡くなりました。
土佐の石川潤次郎(土佐勤王党の一人)は偶然、望月亀弥太に会いに来ており事件に遭遇しています。
長州の吉田実麿はそうとうな人物だったようで、誰もが彼の死を残念がっています。彼らが生き残っていたらどうなっていたか考えてしまいますね。
その頃神戸では…
折角始まった神戸海軍操練所&神戸海軍塾ですが、望月亀弥太(彼も土佐勤王党の一人)が池田屋事件に関与していたことも一因となり、たった1年で廃止されることになります。望月亀弥太の死は坂本龍馬や勝海舟も残念がっていました。
古地図で池田屋を見ると、丁度青色で囲った真ん中辺りに池田屋はありました。この周辺は一連ずっと宿屋だったんですね。
古地図で見る旅館・池田屋。まとめて宿屋(やどや)になっている。
最後に
古高俊太郎と新選組、池田屋事件とその前後を紹介しました。長州藩は池田屋事件により禁門の変に。また、望月亀弥太が参加していた関係で神戸海軍操練所が廃止されるということになったのも池田屋事件です。
この池田屋事件で、大きく歴史が動いているのがよくわかります。
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