新しい土地に引越しした時、近所にどんな店があるのか調べたり、この道を真っ直ぐ行ったたら何処に行くのだろう等を考えたりすることがありますよね。
私も大阪市内に引越しした時、同じように思い、近所のある道を真っ直ぐ行ってみようと思いました。
その道は森ノ宮駅の一本内側にある長堀通です。 何故その道を選んだのか、それはよくわかりません。
ただ車があまり走っていない、主となる道(阪神高速周辺)の一本内側だったからです。静かで散歩するのに適度な道でした。
そのまま難波宮の南側を通り抜けると「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」があったのです。
森ノ宮駅から難波宮南の長堀通を歩く
今回は森ノ宮駅から長堀通(上の地図ピンク)のルートで歩いて見ました。
スタートはJR環状線森ノ宮駅。長堀通りを歩き始めると少しずつ上り坂が続いています。疲れるほどの坂ではありません。
しばらく歩くと右側に何やら広い公園がありました。後でわかったことですが、この上り坂はこの辺りに一面と広がる上町台地で、そして公園は難波宮跡だったのです。この辺りは歴史の散歩路ですね。
難波宮公園。右にチョコっと大阪城が見えます。
上町台地と言えば、大阪城から始まり、南は天王寺辺りまで広がる台地です。歩いてみると傾斜を実感することができますよ。
以後余談。この難波宮跡の南側は、福島左衛門太夫正則の屋敷があったそうで、大夫殿坂と呼ばれているそうです。
今は表示がありませんが、司馬遼太郎の短編「大夫殿坂」で知りました。「大夫殿坂」は短編集「人斬り以蔵」か「アームストロング砲」に入ってます。ぜひとも読んで見てください。余談終わり。
「史跡・難波宮跡跡」現在は公園になっています。少しだけ再現されています。
難波宮跡は”なにわのみや”と読みます。あまり知られていませんが、前期難波宮(651~686年)と後期難波宮(726~793年)がありました。
どちらも短期です。年号を見ても谷間ですね。難波宮についての詳細は近くにある「大阪歴史博物館」でも知ることができます。
幕末から逸れてしまいました。今回はこれを書きたかったわけではないのです。
兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
そのまま道を進みます。すると突然目の前に巨大なオブジェが視界に入ってきました。文字を見てビックリ。大村益次郎と書かれてるではありませんか。非常に大きな碑です。
信号が赤になり写真を撮るには丁度良いアングルですが、早く何の碑なのか知りたい。早く信号を渡りたい!この時は信号が長く感じられました。
信号が青になり、駆け足で渡り見て見ると「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」と書かれています。なぜこんな所に大村益次郎が!?
「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」。右側に大村益次郎の絵、左側に碑文が書かれています。
大村益次郎と言えば、眉毛ですよね。どの絵や銅像も浮き出るように立体になっています。ここでも、そうなっています。
なぜ大村益次郎の碑があるのか?それは…
大村益次郎は京都の三条木屋町で刺客に襲われた後、大阪府医学校病院に転院し、手術をしますが手遅れで亡くなってしまいました。
関連記事:木屋町三条から大村益次郎と佐久間象山遭難の地を歩く
その「大阪府医学校病院」の場所がここだったのです。そして現在ここは「国立病院大阪医療センター」になっています。なるほど納得です。
大阪府医学校病院は、当時の医療最先端である蘭学医ボードウィンや緒方惟準(緒方洪庵の次男)、高安道純がいました。
この碑の下に、碑を作った人の名前がありますが、これを見て驚かされます。
東條英機、小林一三、江崎利一、松下幸之助、鴻池善右衛門、松岡洋右などなど。こっ、これは、軍人や財閥の権力者ばかりではありませんか。この碑が建てられたのは昭和15年です。ということは…
左側にある碑文がさらに説明しています。「明治兵制の創始者 大村益次郎…、徴兵制…、功績…、記念碑…」。
大村益次郎は、兵部大輔に就任して日本の軍制構築を担当しました。この改革が後に徴兵制となり、それが元となり太平洋戦争に繋がっていきます。
大村益次郎は昭和10年代に、太平洋戦争の「軍隊のシンボル」として祭り上げられてしまったんでしょう。だから靖国神社の中央にも銅像があるのでしょうね。
太平洋戦争か。確かに各地に立てられている同様の碑は昭和10年代に集中して建てられています。これを見たとき当時の時代背景が目に浮かんできました。
ここを離れるとき再度「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」を見ると、時代背景を知ったからか、なんか不気味な建物に見えてきました。色々考えさせられる碑ですね。
参考サイト:近代史跡-大阪3
↓大村益次郎については、司馬遼太郎の「花神」から読まれるのがオススメです。
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