今回は大阪の幕末、長州藩を散歩してみます。上の古地図は京阪・大江橋駅ホーム内のパネルです。
まず大阪市内の簡単な説明から。
上の古地図を見てください。三日月が横たわったような形をしている中之島があり、それを上下挟んで川が流れています。上が堂島川、下が土佐堀川と言います。
江戸時代にはこの中之島周辺に各藩の蔵屋敷がありました。
黄色で塗られている箇所が、藩の蔵屋敷があった場所です。たくさんの屋敷があったことがわかります。中之島はほとんど蔵屋敷、現在の眺めとはかなり違います。
中之島の南には、船場があり碁盤の目をしています。船場は豊臣秀吉が整備したことでも有名。
この辺りも京都と異なり、現在の建物から幕末を感じることはほとんどありません。通りや川の名前からでしか当時を感じることはできません。
今回は常安橋から長州萩藩蔵屋敷跡まで歩いてみたいと思います。
常安橋
幕末古地図の中之島周辺を拡大。黄緑色は現在の道路です。
まずは①「長州萩藩蔵屋敷跡」に向かうことにしました。場所は京阪電車「中之島駅」下車。右端の6番出口を降りて南に下り、常安橋を渡った所にあります。
常安橋と言えば新選組がまだ壬生浪士組だった時、常安橋に会所を設けていたそうです。
初代メンバーの一人、家里次郎が常安橋会所で切腹させられています。また、新選組初期の事件として有名な大阪力士との事件「北新地乱闘事件」でも、この会所が使われています。
上の写真が常安橋。今は大きな道路になっています。
常安橋から眺めた風景。夕日です。
また、天誅組も大坂土佐堀常安橋へ着船し船宿坂田屋に入るという史料があるそうです。
京都から舟で下った幕末の志士達は、天満橋の八軒家浜船着場やこの常安橋辺りで上陸していたのでしょうね。
確かに小説を読むと常安橋で舟を降りるシーンが頻繁に登場します。
長州萩藩蔵屋敷跡
①「長州萩藩蔵屋敷跡」に着きました。土佐堀通りとなにわ筋の交差点にあります。
石碑は交差点角にありました。古地図で確認しても、確かに角にあることがわかります。当時は道も細かったので、横断歩道まで長州藩の屋敷があったことがわかります。
石碑の真ん中にプレートがあり、「長州萩藩蔵屋敷跡」の説明が書かれています。
「この辺りはかつての江戸堀の一角で、江戸時代には中之島とともに諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいたところです。
蔵には米をはじめ諸国の物産が集められ、大坂はこのため天下の台所として賑わいました。
ここにあった広大な長州萩藩の蔵屋敷には、幕末動乱に際して、長州に落ちのびる途中の三条実美ら尊王攘夷派の公卿七人も立ち寄ったことがあります。」
横書きで書かれていたので読みづらかったのですが、以上のように書かれていました。
米などの物産を集める蔵であり、寝泊まりする宿舎でもありました。桂小五郎や大村益次郎なども宿泊していたことでしょう。
説明文にある七卿落ちと言えば、長州藩をはじめとする尊王攘夷派の都追放ですね。突然、逆賊扱いになった事件です。
このプレートを読んで、当時のイメージが膨らみました。
おそらく伏見から三十石船か十石船で大阪まで来て、八軒家船着場か常安橋周辺の船場で降り、この長州藩蔵屋敷に泊まったのでしょうね。
なんというか悲しい光景が目に浮かびました。
この長州萩藩蔵屋敷跡ですが、明治時代になり三蔵院高野寺となります。詳しくは下の記事に続きを書いています
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