新選組に関する幕末史跡を歩いては、このページに一覧としてまとめています。
主に京都と大阪(大坂)が多いです。簡単な新選組の説明も載せています。
新選組とは?
幕末に京都の治安維持のための市中警備として京都守護職である松平容保により、会津藩お預かりとして発足したのが新選組です。
元々は清河八郎が浪士を募集したのがきっかけ。その後、京都入りした直後に話が違うと分裂。
江戸に戻ったのが新徴組で、京都に残ったのが壬生浪士組、後の新選組になります。
新選組は最初24名からスタートし、最大200名を超えるまでに増えました。
最初から芹沢鴨派と近藤勇派に分裂していたりと、内輪揉め(内紛)が多い組織で、メンバーを暗殺したり、切腹させたりします。
一躍有名になったのは池田屋事件から。その後、禁門の変に参加して、知名度が上がっていきます。
知名度が上がり新選組の人数が増えていきます。伊東甲子太郎などの御陵衛士(高台寺党)も加わりますが、結局脱退し、襲撃して暗殺。
戊辰戦争から鉄砲の時代に移ります。
戦力が弱まり、新選組は賊軍に。近藤勇は処刑、最後は新政府軍に降伏となりました。
新選組の史跡を巡る(京都・大阪)
新選組は長州藩を敵視していたことから長州藩に関係する内容が多くなっています。
新選組・京都編
- 古高俊太郎を捕らえて、池田屋事件に。「古高俊太郎と新選組、池田屋事件とその前後」
- 新選組から桂小五郎が狙われている時に、芸姑・幾松が何度も助ける「桂小五郎幾松寓居跡など」
- 禁門の変、新選組・見廻組が天王山の真木和泉らを攻める「宝積寺」
- 禁門の変、新選組・見廻組に攻められ、自刃した「十七烈士之墓」
新選組・大阪(大坂)編
- 大坂力士乱闘事件の発端となった「蜆橋跡」碑
- 壬生浪士組時代に常安橋に会所を設けていた。「長州萩藩蔵屋敷跡と常安橋」
- 新選組 大坂旅宿跡(屯所跡)「萬福寺」
- 私塾「玉生堂」を開いていた藤井藍田を新選組が捕らえて幽閉。「藤井藍田 玉生堂跡」碑
- 八軒家浜船着場近くにあった新選組定宿「京屋忠兵衛跡」
- ぜんざい屋事件「大利鼎吉遭難の地」碑。土佐藩脱藩が企てた大坂城焼き討ち計画を新選組大坂屯所の谷万太郎らが阻止した事件
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