歴史というのは繋がりがあります。長州藩と共に尊皇攘夷思想を持っていたのが土佐藩浪士の土佐勤王党です。
長州藩が賊軍となり、禁門の変(蛤御門の変)の後、第1次長州征伐が大坂城を中心に始まろうとしていました。
そんな流れの中、大坂城焼き討ちの計画をしたのが大坂の土佐勤王党です。
後に有名になる田中光顕や大利鼎吉(おおりていきち)ら9名。彼がいたのは大阪・松屋町付近のぜんざい屋「石蔵屋」でした。
その情報を聞きつけたのが新選組(大坂グループ)谷万太郎らです。
今回はぜんざい屋事件と呼ばれる「贈正五位 大利鼎吉遭難地」碑を歩きながら、その歴史を紹介します。
土佐藩勤王党の脱藩浪士がぜんざい屋「石蔵屋」に潜伏し、大坂城焼き討ち計画をたてる
慶応元年に松屋町筋のぜんざい屋(善哉屋)「石蔵屋」に土佐浪士の志士たちが潜居していました。
何人いたのかというと、土佐勤王党脱藩の志士たちが9名。その中の一人に大利鼎吉(おおりていきち)という土佐勤王党の一人がいました。
このメンバーには田中光顕(当時の名前は浜田辰彌)もいましたが、新選組が急襲してきた時は留守で難を逃れています。
土佐藩脱藩のメンバー
- 田中光顕(浜田辰彌)
- 大橋慎三
- 井原応輔
- 千屋金作
- 島波間
- 武者小路家の家臣:本多大内蔵
- 那須盛馬(片岡利和)[※]
- 池大六[※]
- 大利鼎吉[※]
このメンバーがのぜんざい屋「石蔵屋」に潜伏していました。
下の3名[※]は後で加わったメンバー。その中の一人に大利鼎吉(おおりていきち)がいます。
場所は今で言う松屋町です。
- 場所:大阪メトロ「松屋町駅」④番出口を南
場所は大阪市中央区瓦屋町1丁目のぜんざい屋(善哉屋)「石蔵屋」です。このぜんざい屋は武者小路家の家臣である本多大内蔵の家です。
武者小路家の家臣である本多大内蔵は、名前を石蔵屋政右衛門と改名したことから、ぜんざい屋「石蔵屋」と呼ばれています。
新選組に急襲される「ぜんざい屋事件」が起こり、大坂城焼き討ち計画は未遂に終わる
土佐藩脱藩浪士9名は大坂にに出て、大坂城焼き討ちの機会を伺います。
しかし同じ町に新選組大坂屯所の谷万太郎が剣術道場を開いていたことから、土佐浪士の隠れ家を知られてしまいました。
谷万太郎と、兄の谷三十郎、正木直太郎、高野十郎の4人でぜんざい屋を襲撃。しかしほとんどの土佐藩浪士は留守で、残っていたのは大利鼎吉と本多大内蔵だけだったのです。
大利鼎吉は天誅組の首領である中山忠光からいただいた小太刀で戦いますが、全盛んに傷を受けて亡くなりました。本多大内蔵は裏口から逃げることに成功しています。
このぜんざい屋事件について、谷万太郎ら4人が京都の新選組近藤勇らに手紙を送っています。
これによると「予想外に手強い敵だった」と報告していることから、大利鼎吉はかなり強かったことがわかります。
この場所からたった9人で大坂城を焼き討ちする計画をたてていたのはかなり無謀と言えるでしょうね。
「贈正五位大利鼎吉遭難地」碑は田中光顕の筆跡
ぜんざい屋事件「贈正五位大利鼎吉遭難地」碑は、同じ土佐藩脱藩の田中光顕(当時は浜田辰彌)の筆跡によるものです。
田中光顕と言えば、岩倉使節団、西南戦争で征討軍会計部長、陸軍少将、元老院議院、内閣書記官長、警視総監、学習院院長、宮内大臣などを歴任し、明治時代に従一位勲一等伯爵となった後の大物です。
ぜんざい屋はなんと昭和10年まで建物が残っていたそうですが、松屋町の道路拡張によりなくなってしまいました。
それを残念ながった有志がこの石碑「贈正五位大利鼎吉遭難地」を建てたのです。
昭和12年にこの石碑は建てられますが、田中光顕が生きていたのが驚きですね。なんと当時95歳で、この碑の建立を喜んだそうです。
石碑の側面には大利鼎吉の辞世の句「ちりよりもかろきみなれば大君に心ばかりはけふ報ゆなり」が刻まれています。
ぜんざい屋事件の4カ月後に、大阪で私塾を開いていた「藤井藍田」も新選組に囚われてしまいます。
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