幕末散歩をしていると、現地に行く前よりも行った後の方が、その場所の歴史に対し関心が増していきます。
さらに詳細な情報を調べるようになり、興味が倍増していくからです。ぜひとも気楽に足を運んでみてください。
以前土佐稲荷について書きましたが、それの続きになります。
前回分は「【土佐稲荷神社】江戸時代は土佐藩・大坂蔵屋敷、明治時代は岩崎弥太郎邸。」を見てください。
土佐稲荷神社がある場所は、江戸時代に土佐藩の大坂蔵屋敷があった
大阪の土佐稲荷神社を散策後、調べてみてわかったことといえば、江戸時代この場所には広大な土佐藩邸(大坂蔵屋敷)があり、その一箇所に土佐稲荷神社があったということです。
藩邸内に神社があるのは、どの藩にも普通だったようですね。京都・河原町にあった土佐稲荷・岬神社も同様です。
大阪も京都も、土佐稲荷神社だけが現存するため「近くに土佐藩邸があったのだなぁ」と勘違いしがちですが、実はそうではなく、土佐藩邸があってその中に土佐稲荷があったのです。
つまり逆なのです…
土佐藩の大坂蔵屋敷の大きさはどのくらい?
では、土佐藩・大坂蔵屋敷はどれくらいの大きさがあったのでしょう?
その答えは…
土佐藩邸跡近くにある鰹座橋と白髪橋にあります。
現在は、川が埋め立てられ、当時の原型が無くなっていますが、町名や通り名、そして橋の名前等が現存しているので、そこを手がかりとするのが良いでしょう。
現在の地図。鰹座橋と白髪橋が地名として残っています。
鰹座橋は、かつてこの場所に土佐の鰹座があったことに由来しています。また、白髪橋は、これまた土佐の白髪山から檜(ひのき)を大量に運び、この地で売っていたからです。
両方とも土佐藩が関係しているんですね。確かに現在も高知といえば鰹や木材です。
この辺りは橋の名前は多いのですが、今はその橋はありません。西長堀川は現在は埋め立てられてしまいましたが、このように地名だけが残っているのが面白いですね。
この周辺を歩いていた時にどこかに「西長堀川と鰹座の跡」がありました。(写真撮り忘れ)
では、古地図で鰹座橋と白髪橋を確認してみることにしましょう。1845年(弘化2年)の大坂細見図を使用します。
↑1845年(弘化2年)の大坂細見図
古地図に緑色で表示しているのが、鰹座と白髪橋です。鰹座橋が”カツオザハシ”(カソオにも見えるが…)、白髪橋が”白カハシ”と書かれていますね。
古地図を見ると、鰹座橋の前の通りまで土佐藩の大坂蔵屋敷があったことがわかります。
それを現在の地図と比較してみました。現在の鰹座橋は、大阪市立中央図書館の前の通りにあります。ここまでが土佐藩邸だったようです。
で、西端は古地図によると、シン玉ツクリハシ(新玉造橋)とあります。これは現在の玉造橋にあたります。これは玉造稲荷の西に一致していることがわかりました。
では南端はどこまでだったのでしょうか?調べてみた結果…
区民センター、こども文化センター、中央図書館敷地、公文書館、土佐公演、そして西高校までの公共文施設が土佐藩邸(土佐藩大坂蔵屋敷)だったということが大阪市西区の情報誌によってわかりました。
それらを統合すると、下の現在の地図内にある赤色で囲った線内が土佐藩の大坂蔵屋敷だったことがわかりました。かなり大きかったことがわかりますね。
▲ピンクで囲った所が、土佐藩大坂蔵屋敷の大きさ
追記:上の地図が少し間違っているようです。すみません。
西長堀団地の北の交差点が白髪橋と書いてますが、ここは鰹座橋です。白髪橋は100m東のあみだ池筋との交差点です。(追記ここまで)
時代は江戸から明治になり、大借金の土佐藩は、岩崎弥太郎にこの土佐藩大坂蔵屋敷を無料で提供(払い下げ)するかわりに、借金ごと肩代わりしてもらうことになりました。
当時、土佐藩は莫大な借金があったにもかかわらず、これも引き受けた岩崎弥太郎ってすごい財力です。
明治7年に三菱は本社を東京に移す時に、岩崎弥太郎はこの建物を大阪府に譲渡しました。道理でこの周辺は公共の施設が建ち並んでいるわけなんですね。歴史が繋がりました。
それでも弥太郎は、土佐稲荷だけは引き続き三菱で守ることにしたそうで、現在も土佐稲荷神社だけが残っているといことになります。
最後に余談です。
地図内に西長堀団地がありますが、ここに若い頃、司馬遼太郎が住んでいました。11階建ての10階に住んでいたそうです。「龍馬がゆく」はここで執筆されました。
これらの話は「歴史と小説」というエッセイの「歴史小説と私〜大衆文化と花とお稲荷さん〜」にも載っています。アパートから土佐稲荷の桜を見下ろすとうい話が出てきますので、そちらも参考にしてみてください。
関連:[土佐藩]幕末の史跡一覧に戻る