大阪市の松屋町筋を南に行くと寺町が続きます。その中の一つに幕末に新選組が大坂の屯所としていた「萬福寺(万福寺)」があります。
以前はありませんでしたが、今は「新選組 大坂旅宿跡」碑が出来ました。
新選組大坂屯所跡の「萬福寺」を歩いてみました。
新選組大坂屯所跡「萬福寺」
大阪市の千日前通・松屋町筋を南に歩くと寺院が続きます。これは昔バラバラにあった寺院が豊臣秀吉が一つにまとめたことから一直線に寺が並ぶようになりました。
その寺の一つに萬福寺があります(上の写真が萬福寺)。その右前に「新選組 大坂旅宿跡」碑が建っています。
この周辺の寺は中に入れませんが、かなり大きなお寺です。萬福寺もかなり大きいのがわかります。
左2軒となりに源聖寺坂がありますが、そこの坂の上の途中まで奥行きがあるので、かなり大きいお寺なのがわかります。
「新選組 大坂旅宿跡」とは新選組の大坂屯所だったお寺ということです。新選組大坂グループがここで寝泊まりしていました。
石碑の右下に細かく説明文があります。あまりに長いので簡単に説明文の内容をまとめてみました。
一会桑(一橋・会津藩・桑名藩)を助けた最強軍事集団が新選組で、将軍徳川家茂の大坂城滞在の時には大坂に出張していました。
その時に使われていた旅宿(りょしゅく)のひとつが萬福寺(まんぷくじ)です。
島田魁(しまだかい)の手記によると、慶応元年(1865年)5月、徳川家茂3度目の西上にあわせて、京都守護職松平容保は新選組に大阪市中取締を命じ、この萬福寺を宿所としています。
その他、井上源三郎が萬福寺に泊まっていた時に、兄井上松五郎が訪ねてきたという手紙も残っています(この時は井上源三郎と会えず)。
萬福寺の現存する建物から、庫裏(くり)や山門(さんもん)は幕末期から存在しているということです。
参考:「新選組 大坂旅宿跡」碑説明文より
この説明文にはありませんが、普段は新選組の大坂グループとして谷三十郎、谷万太郎、谷周平(近藤周平)、山崎蒸、川島勝司ら20名ほどが利用していたようです。
萬福寺には入れませんが、入口から中が見えるので撮影。入口正面。
入口からやや左側を撮影。かなり広いのがわかります。
「新選組 大坂旅宿跡(屯所)」碑は平成22年6月に建立されました。寄贈者は奥野聡子氏。
最後に
新選組 大坂旅宿跡(屯所)「萬福寺」は中に入ることができませんが、この周辺は寺院が一直線にあり、幕末当時をイメージすることができますよ。
源聖坂などもあるので、あわせて歩いてみて下さい。
この新選組大坂屯所「萬福寺」と関連するものを見ると、萬福寺から松屋町筋を北に行ったところにあったぜんざい屋「石蔵屋」を襲撃した事件「ぜんざいや事件」や、その数カ月後に新選組大坂グループに捕まり、この萬福寺に捕らえられ亡くなった藤井藍田をあわせて知っておきましょう。
- 住所:大阪市天王寺区下寺町1丁目3-82(Google Map)
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