古地図で「藤井藍田 玉生堂跡」碑を歩く

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「藤井藍田 玉生堂跡」碑

大阪市内の高台橋公園にある「藤井藍田 玉生堂跡」碑に行ってみました。

この藤井藍田は、吉田松陰とも交流があり、新選組に捕らえられた人物です。

古地図を照らしながら「藤井藍田 玉生堂跡」碑を歩いてみました。簡単な説明もあわせて紹介します。

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高台橋公園にある「藤井藍田 玉生堂跡」碑

高台橋公園(たかきやばしこうえん)

大阪市西区南堀江3丁目1にある「高台橋公園」にやってきました。

高台橋と書いて「たかきや」と言います。つまりここは「たかきやばし公園」ということになります。

この高台橋公園の東側に「藤井藍田 玉生堂跡」碑があります。

 

「藤井藍田 玉生堂跡」碑

「藤井藍田 玉生堂跡」碑。

この公園がある西区南堀江3丁目付近に、藤井藍田が玉生堂という塾を開いていました。

 

「藤井藍田 玉生堂跡」碑の説明

碑の裏には以下のような説明があります。

文化12年(1815年)に藍商の家に生まれた藤井藍田は書画や詩文をよくし、安政年間(1854年〜1860年)このあたりに玉生堂という学塾を開いた。

倒幕の志士を支援したため捕らえられ、慶応元年(1865年)に獄死した。

参考:「藤井藍田 玉生堂跡」碑より

幕末の映画やドラマなどには登場しない私塾が江戸時代にはたくさんありました。その中の一人がここで塾を開いていた藤井藍田の私塾「玉生堂(ぎょくせいどう)」です。

幕末の激動の時期にはたくさんの志士たちが集まっていました。

 

大阪の古地図、高台橋付近

高台橋付近の江戸時代の古地図(改正増補国宝大阪全図)を見てみると、高臺バシ(高台橋)と書かれているのがわかります(上の古地図赤線を参照)。

この下に2丁目とあり、堀江川を挟んで上が3丁目とあるので、高臺バシと書かれている丁度上付近に玉生堂があったものと思われます

 

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藤井藍田は新選組に捕らえられる

「藤井藍田 玉生堂跡」碑の説明文

さらに藤井藍田と玉生堂の説明文があり、そこから新選組に捕らえられたことも載っています。

玉生堂は勤王の志士であった藤井藍田(ふじいらんでん)の学塾がこの付近にあった。祖父は阿波(徳島)の人で、来阪して呉服と藍を商う「綿屋」を開いた。

藤井藍田は家業を継ぎ、田能村竹田に画を学び、廣瀬淡窓に師事して詩文を研習した。また国事に目覚めた藤井藍田は勤王の志士と交わり、長州藩や薩摩藩などの諸国を巡歴した

安政3年(1856年)、帰阪してこの付近に私塾「玉生堂」を開き学を講じるようになった。

塾は倒幕の志士たちのたまり場になっていたため、慶応元年(1865年)、藤井藍田は新選組に捕らえられ、天王寺区の萬福寺に幽閉され、獄中にて没した

享年50歳。天王寺区の統国寺に墓所がある。

吉田松陰が投獄された時に、藤井藍田が詩画を贈って激励したという逸話が伝わる

参考:「藤井藍田 玉生堂跡」碑の説明文より

この説明文からわかるのは、藤井藍田は詩文や画を学んでいく中で、勤王の志士となり、長州や薩摩に巡歴していたということです。

偶然私塾をひらいていたわけではなく、勤王の志士を育てたり説くことが必要だという理由から、私塾「玉生堂」を開いていたのがわかります

運が悪かったのは新選組が大阪にも屯所があったこと。これだけ勤王の志士が集まっているとすぐに広まってしまいますからね。

新選組の大阪屯所があった「萬福寺」に幽閉され、獄中で亡くなりました。

関連:「新選組の史跡を巡る(京都・大阪)」に戻る