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古地図を持って幕末志士や諸藩の史跡を巡るブログ

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新選組の大坂力士乱闘事件発端となった蜆橋跡を歩く

滋賀銀行しじみばし(蜆橋跡)

新選組がまだ壬生浪士組という名前だった時に、大阪(大坂)で力士たちともめる事件がありました。

その事件は大阪市内の堂島付近で起こってことが発端となっています。

古地図を見ながら新選組の大坂力士乱闘事件に繋がった蜆橋跡を歩いてみました。

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新選組(壬生浪士組)の大坂力士乱闘事件とは?

新選組がまだ壬生浪士組だった時代、大坂の力士と乱闘事件がありました。

文久3年(1863年)、芹沢鴨、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、野口健司、島田魁の8人が軽装で夕涼みにでかけます。

途中、斎藤一が腹痛になり、北新地の住吉楼で休憩するすることになりました。

歩いていると反対側から一人の力士がやってきてぶつかります。芹沢鴨は力士に端に寄るよう言いますが、力士はそれに従わずもめはじめます。芹沢鴨はその力士を殴りその場を立ち去りました。

話はまだ終わりません。そこから蜆橋(しじみばし)辺りで、他の力士が道を歩いてきて、またもや道を譲りません。そこで壬生浪士組は全員が倒し、芹沢鴨は馬乗りになって力士を殴ります。

 

その後、壬生浪士組は北新地の住吉楼に到着。腹痛の斎藤一を介抱していると、外から大きな声が聞こえてきます。

その声は先程の件で腹を立てた力士たちが仲間をつれてやってきたのでした。力士の数は約30人にまで膨れ上がっています。

力士たちは人数が多い上に棒を持って襲いかかってきたことから、壬生浪士組は仕方なく抜刀し、大乱闘となりました。

新選組は軽装だったので、脇差しかありませんでしたが、結果は4人を斬り、14人に怪我を負わせ、力士たちは退散したという事件です。

今回、その力士たちとの乱闘事件が起こる発端となった蜆橋(しじみばし)を訪れます。

 

蜆橋(しじみばし)の場所

中之島と堂島の古地図

この画像は現在の地図に古地図をあわせた地図になります。

京阪電鉄・大阪メトロ「淀屋橋駅」を下車して北側に歩くと、大阪市役所が見えてきます。

この大阪市役所は中之島にあります。中之島の南側は土佐堀川で、北側は堂島川が流れています。

上の古地図の黄緑色の箇所を北に行くと、堂島川を超えた辺りに御堂筋新御堂筋に枝分かれしている箇所があります。

この場所に曽根崎川、別名蜆川(しじみがわ)がありました。上の古地図にも蜆川という名前が載っています(古地図の赤線参照)。

曽根崎川でよく堂島蜆(しじみ)がとれたことから別名「蜆川」と呼ばれていました

 

御堂筋と新御堂筋が枝分かれしている丁度その場所(Yの形の場所)に、曽根崎川(蜆川)を渡るための蜆橋(しじみばし)があったことが上の古地図でもわかります。

堂島は南側に堂島川が流れ、そして北側には曽根崎川(蜆川)が流れた島のようになっています。

その曽根崎川(蜆川)は既に埋め立てられて無くなっています。

これらを踏まえて「史跡 蜆橋(しじみばし)」に行ってみたいと思います。

 

「史跡 蜆橋(しじみばし)」碑を歩く

滋賀銀行

ドトールコーヒーの向かいに滋賀銀行のビルがあります。

 

滋賀銀行しじみばし(蜆橋跡)

こ滋賀銀行の建物に蜆橋跡がありました。丁度、滋賀銀行の角にあたるところに「しじみばし」と書かれているのがわかります。

 

史跡 蜆川跡

「しじみばし」と書かれている角の右側を見ると「史跡 蜆川跡」がありました。

あまりにもあっさりとしていて、知らなければ気が付かず通りすぎてしまうような場所です。

この「史跡 蜆川跡」がある場所から西側に行くと、曽根崎川(蜆川)があったことがわかる細い道がクネクネと続いていますよ。

ビルに埋まっているので、滋賀銀行を目印に行ってみて下さい。

 

関連:「新選組の史跡を巡る(京都・大阪)」に戻る

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