①「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」周辺を歩いた後、そのまま旧堺港にある②龍女神像と③幕末の堺港を語る標柱石に行ってみました。
②龍女神像については明治時代になりますが、幕末は明治時代と繋がっているのであわせて読んでみてください。
幕末当時の堺港と現在とがそのままの形で残っていることがわかりますよ。
龍女神像(乙女像)
折角来たので旧堺港も見てみようと海のほうに向かいました。堺港に行くと自由の女神ならぬ②龍女神像が見えます。
この龍女神近くに行くには北側からぐるっっと反時計回りにしか行けません。(地図を参照してください)。
確か26号線のオレンジ辺りに、左に下りる階段があったと思います。そこを降りて、堺港沿いの道を歩いて行きます。
地図で見ると簡単だろうと高をくくっていましたが、意外と遠いんですよぉ。途中ほとんど何もありません。道路工事が延々と続いているような砂煙の道をひたすら歩いて歩いて、なんとか着きました。
②龍女神像。疎水からも見えますが、近くで見るのには意外と遠いです。
②龍女神像、拡大表示。
この龍女神像は、明治36年(1903年)「第5回内国勧業博覧会」が大阪で開かれた時、この場所を第2会場として使用されました。
その時、大浜水族館前に龍女神像が設置されていました。(因みに第1会場は大阪市天王寺)。
博覧会後は「乙女さん」の愛称で親しまれていましたが、水族館も廃館となり、昭和49年(1974年)に撤去されました。
今旧堺港にある龍女神像は、平成12年(2000年)7月、市制110周年記念に復元したものになります。
龍女神像を後ろから見たところ。
現在は北波止緑地として整備されています。
堺港は江戸時代、大和川の土砂が蓄積されて、船の出入りができない状態でしたが、江戸浅草の吉川右俵衛門が1790年ごろから堺商人の力を借り、20年かけて工事し、現在の堺港のような状態にしました。
その功績をたたえ、この場所に「吉川右俵衛門顕彰碑」があります。
波止場らしく小型の舟がたくさんとまっています。眩しくて見えない。
遠くに船が見えます。
幕末の堺港を語る標柱石
堺港の北波止に幕末の標柱石が出土されました。③幕末の堺港を語る標柱石と言われているものです。
当時の役所が運行上の注意を促すために建立したそうです。
幕末とは内容が関係ないですが、この標柱石が、慶応元年に建立されたということで幕末つながりです。
当時はこの堺港を重要視していたのがよくわかりますね。
標柱石の説明文より。
説明文によると右側面。「新地方」と書かれています。新地方とは役所という意味です。
これは正面からです。説明文通り上部がありません。「〜船か里到間式内へ乗入可申者也」と書かれています。
旧堺港を古地図で見てみる
最後に旧堺港の古地図が説明文にありました。現在とほとんど変わりません。
この辺りは御台場と書かれています。この古地図から船の安全を祈るためでしょうか、神社が複数あるのがわかります。
新住吉、水天宮、天神御旅と書かれています。灯台は遥明台と称されていたようです。現在も神社がありましたよ。
神社が突然あったので、疑問に思っていたらそういうことだったんですね。天満宮御旅所、上の古地図には「天神御旅」と書かれています。
柱の上部に天満宮、下部に御旅と書かれて、その下は埋まっていてわかりません。
上の古地図と見比べてみると、堺港周辺は結構同じ形で残っているのがわかります。