堺「天誅組上陸の地記念碑」を歩く

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「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」と「土佐十一烈士記念碑(堺事件)」

今回の更新が天誅組かと言いますと、この前、天誅組を訪ねて奈良の五條に行ってきたからなのです。そんな訳で、天誅組の原点である上陸の地を歩いてみることにしました。

天誅組について知りたいという方は下の記事もあわせて読んでみてください。

関連天誅組とは?メンバー(名簿付き)や進路について

堺に旧堺港と言われる幕末当時のおもむきを残した場所があります。その近くに現在2つの碑が並んで建てられています。

一つは①「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」、もう一つは②「土佐十一烈士記念碑(堺事件)」です。

今回は前者の①「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」を取り上げたいと思います。

 

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天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)のアクセス(行き方)

南海堺駅周辺地図(天誅組上陸地記念碑、龍女神像、幕末の堺港を語る標柱石)

  • 最寄駅:南海本線「堺駅」

南海本線・堺駅を西口を出て、ロータリーから26号線方面にに向かいました。「リーガロイヤルホテル堺」があるので左折し、26号線をまっすぐ進みます。

私の中ではこのまま行くと、石碑に辿り着くかなって思ったんですが…

疎水がある箇所が高架になっているため(オレンジ色の箇所)、その下にある石碑の場所に行くことができません。見えてはいますが行けないんです。

仕方なくそのまま26号線を行き、高架を下りグルッと左遠回りしてなんとかたどり着きました。

結果的にわかったことですが 、どうやら「ディスカウント・スーパー・ジャパン」の店に入り1階に降りると、丁度①「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」の石碑の前に着くことができたようです。

追記:南海堺駅の「南口」から出ると近いことが後日わかりました。

 

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天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)

「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」と「土佐十一烈士記念碑(堺事件)」

1863年に8月、天誅組は京都から淀川を下り大阪湾に出て、のちこの堺に上陸します。その後、奈良の五条(五條市)に向かっていくことになります。

つまり、ほとんどが船での移動ということになりますね。そして船を降りたのがこの堺。

それが、この場所「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」、南海本線・堺駅の西にあります。

 

「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」と「土佐十一烈士記念碑(堺事件)」

右に「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」があり、その左に並ぶのが「土佐十一烈士記念碑(堺事件の碑)」です。

 

天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)

淀川から天保山、大坂湾を下り、堺港に入った天誅組はこの場所に上陸しました。

 

天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)拡大

拡大してみると冒頭に「天誅組義士上陸遺蹟碑・文久三年八月十三日・天皇行幸…」とあります。

 

天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)

すぐ左手前にも碑があります。

 

天誅組義士上陸蹟

手前にある碑には「天誅組義士上陸蹟」と書かれています。

 

「天誅組上陸の地記念碑」近くにある旭橋跡

近くに橋の一部が残っています。左が「あさひばし」、右が「旭橋」とあります。この橋の周辺に天誅組が上陸したのでしょう。

 

久留米藩の半田門吉が書いた「大和戦争日記(大和日記)」によると、堺に上陸すると甲冑を着け、宿屋でご飯を食べ、すぐに河内に向けて出発したと書かれています。

この天誅組は隊士(メンバー)の役割を決めてはいるのですが、武器が旧式すぎたというのが挙げられますね。

普通なら中之島で舟を降りた後、陸路を南下すれば良いのですが、それをせずわざわざ天保山を舟で南下、堺の地に上陸し、そこから南東に進むという遠回りをしたのは、河内のメンバーが合流するからという理由があったからのようです。