- 「鞆の浦到着。「坂本龍馬宿泊所跡」と頼山陽「対仙酔楼」を見る」
- 「龍馬観音から福山市営渡船のりば、禅福寺・対潮楼周辺を歩く」
- 「「鞆の津の商家」、「いろは丸事件談判跡」、「御舟宿いろは」周辺を歩く」の続きです。
地図では①龍馬宿泊所跡、②対仙酔楼、③龍馬観音、④対潮楼・福禅寺、⑤鞆の津商家、⑥いろは丸事件談判跡を歩いてきました。
今回は⑦鞆の浦歴史民俗資料館からになります。
鞆の浦歴史民俗資料館へ
⑥いろは丸事件談判跡を後にし、⑦鞆の浦歴史民俗資料館に行くことにしました。
先程の⑤鞆の津商家まで戻り、その前の駐車場に階段があるので、そこを上ると⑦鞆の浦歴史民俗資料館に着きます。
⑦鞆の浦歴史民俗資料館前
⑦鞆の浦歴史民俗資料館に向かう道中は上り坂になっています。そこは鞆城というお城があった所だそうです。「どうりで坂になってるわけだ」。
確かに城壁がわずかですが残っているのを確認できます。説明文によると、この城壁は「鞆城本丸の東南隅とその一部」を復元したものだそうです。
鞆城の石垣。(復元)
城壁の一部が展示されています。石垣の一部に藩を示す家紋を見ることができます。
この坂を上りきると⑦福山市鞆の浦歴史民俗資料館に着きました。
夏の間、ここでは「龍馬からの贈り物ーいろは丸引き上げ品とピストル」という特別展が開かれており(現在は終了しています。)、ぜひとも見ておかないと、とやってきました。
残念ながら館内は撮影は不可だったので、写真はありません。入ってみると涼しかったので、まずは5分ほどロビーで座り休憩。
2005年にいろは丸を引き上げ、その時に見つかった物を館内で展示していました。が、特にこれといって驚くものはありませんでした。
というのも、ドアの一部である蝶番やドアノブ、軸受金具、留め金具、台座一部といった全てパーツの一部であり、「へぇ〜」といった感想しかありませんでした。
とにかく金具が多かった記憶があります。土佐藩や海援隊を証明するものがあれば、きっと食い入るように見たでしょうね。
常設展では、保命酒の店先を再現している場所や、朝鮮通史の史料等が、この場所ならではで興味深いところでした。
特別展「龍馬からの贈り物 ーいろは丸引き上げ品とピストル」(現在は終了しています。)
鞆の浦歴史民俗資料館は坂を上った所に位置しているので、鞆の浦を一望できます。城があったのも納得。いい景色です。
鞆の浦の古地図
福山市鞆の浦歴史民俗資料館でもらったリーフレットに、鞆の浦の古地図が紹介されています。それを見ると、このあたりが現在とほとんど変わりないことがわかります。
下の古地図を参照してください。現在、龍馬観音がいる浄泉寺、対潮楼と呼ばれるようになった福禅寺も古地図には存在し、最も湾岸よりだったことがわかります。(現在は道路や旅館が並ぶ道筋ができているため、すぐ前が湾岸ではなくなっています)。
また紀州藩が宿泊した圓福寺や、現在、⑦鞆の浦歴史民俗資料館となっている場所が城山で、鞆城があった場所に大きな屋敷があったことも確認できます。
参考史料:「福山市鞆の浦歴史民俗資料館:〜潮待ちの館〜」リーフレットより。
江戸時代(元禄時代)、沼名前神社所蔵
太田家住宅に向かう道中
⑦鞆の浦歴史民俗資料館を後にし、⑧太田家住宅に向かいます。
資料館の中央から石段があり、そこを下りていきました。階段には途中、稲荷神社があり、百度石もあります。
この百度石は明治3年にできたようです。明治に入り神仏分離令が出された時に各地に作られたものの一つでしょうか。
石段の途中にある稲荷神社
石段を下りると、急に江戸の名残がある一体があります。太田家住宅や鞆の常夜灯につながる通りが保存地区になっているんでしょう。
昔ながらのお店が連なっており、風情がありますね。が、ここに来ると急に人が多くなります。今年は特に多いとのことです。
なまこ壁を横にしたような家です。先程の地図ではここら一体は町家となっていました。
常夜灯まで伸びる道は、古地図では御茶屋さんとなっていました。現在は駄菓子屋さん等が並んでいて、いい味出してます。
この道をまっすぐ行くと⑧太田家住宅に到着です。
(つづく)
関連:[土佐藩]幕末の史跡一覧に戻る