本間精一郎が岡田以蔵や田中新兵衛に切られた場所は四条木屋町を入ってすぐの所にあります。そこに「⑨本間精一郎遭難之地」があります。
今でも家の前には当時の刀傷が残っているので、現地でチェックしてみて下さい。
今回は⑨「本間精一郎遭難之地」についてと、岡田以蔵や田中新兵衛が付けたという刀傷も紹介します。
本間精一郎遭難之地
場所は四条木屋町通上がると⑨「本間精一郎遭難之地」があります。
⑨「本間精一郎遭難之地」入口。丁度「八之舟入跡」碑がある向かい側の家にあります。
家は瓦などは変更されていますが、幕末当時のままで残っています。
入口右にある「本間精一郎遭難之地」碑。
越後出身の本間精一郎は、かなり早くから京都中心に尊皇攘夷による活動を行っていました。
藩に属していないため長州藩、薩摩藩、土佐藩等の急進派と共に行動していましたが、彼の勝気な性格や能弁家だったため、同士からも嫌われるようになります。
文久2(1862)年、本間精一郎は先斗町で酒を飲んだ帰りに襲われました。彼を斬ったのが土佐藩の岡田以蔵や薩摩藩の田中新兵衛ら6名と言われています。
土佐藩の岡田以蔵と薩摩藩の田中新兵衛は、「幕末の四大人斬り」の二人でもあります。土佐の人斬りと言えば岡田以蔵で薩摩藩の人斬りと言えば田中新兵衛や中村半次郎ですね。
藩という後ろ盾が無いと、結果的に暗殺されていしまうのですね。この時代は。
刀傷の跡。本間暗殺の跡がはっきりと残っています。
最後に
土佐藩の岡田以蔵や田中新兵衛に襲われた⑨「本間精一郎遭難之地」碑を紹介しました。
彼は死後、明治維新に繋がった一人として従五位の官位が贈呈されています。
四条通から三条通は土佐藩邸があったことから土佐藩の碑が多く残っています。今回紹介した⑨「本間精一郎遭難之地」碑とあわせて周辺を歩いてみて下さい。
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