鞆の浦バス停を降り、南に歩いていきます。左側を見ると、そこは海・海・海。弁天島(弁天堂があるので)と仙酔島(仙人も酔ってしまうほどの美しい島)が見えます。
海沿いを歩くと色々な場所に鞆の浦マップがあるので、それをゲット。マップを見ながら歩いていくことにしました。
今回は①「坂本龍馬宿泊所跡」と②頼山陽「対仙酔楼」を歩いています。
坂本龍馬宿泊所跡「桝屋清右衛門宅」
手前に弁天島。向こうに仙酔島。
海を見ていると通り過ぎそうになりますが、途中で右折できる道があります。そこを曲がってすぐの所が坂本龍馬が宿泊した①坂本龍馬宿泊所跡です。
ここはいろは丸事件の時、龍馬が宿泊した桝屋清右衛門宅です。彼は回船問屋をしており、土佐藩と商いをしていたこともあり、当然、海援隊を支援していました。
桝屋の2階に隠し部屋があったそうで、これがいろは丸展示館に再現されています。これは後ほど紹介します。
①坂本龍馬宿泊所跡(桝屋)
坂本龍馬宿泊所跡碑。英語つき。
右側には「東浜に面した江戸末期の建物。桝屋といい回船業、問屋を営んでいた」、左側には「1867(慶応3年)のいろは丸事件で龍馬が5泊6日の宿泊跡」という説明文があります。
対仙酔楼
次に元のT字路に戻り、少し南に行くと駐車場の前に②対仙酔楼があります。ここはあの頼山陽も訪れた場所です。
(余談ですが、頼山陽が書いた日本外史は、多くの人々に読まれ、尊王攘夷派に多大な影響を与えています。三男である頼三樹三郎は安政の大獄で処刑されました。余談終わり。)
説明文によると右側には「江戸中期の商家門。門楼とよばれ2階には眺望のよい座敷がある」、左には「1814年(文化2年)頼山陽はここに滞在。景観をたたえて「対仙酔楼」と名付けた」とあります。
確かに向かいの海はきれいなのですが、一段下が駐車場になっていて、それが景観を損なっているのが残念です。
↑対仙酔楼。「山紫水明」という四字熟語はここで生まれました。
↑頼山陽先生日本外史寄稿史跡
この前が駐車場になっており、そこが段になっていました。おそらく、この段まで海があったのではと思います。それらしい常夜灯も見られます。
この常夜灯は慶応っていう年号がありました。幕末ですね。
↑駐車場横にあった常夜灯。幕末のものもあります。
↑駐車場のマークに、福山雅治の坂本龍馬が!福山龍馬発見!(龍馬伝)
(つづく)
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