吉田松陰の野山獄跡、金子重之助(重輔)の岩倉獄跡を見て、その後、萩反射炉を見てきました。
その反射炉を後にし、萩循環まぁーるバス(松陰先生)に乗り松陰神社に行きました。「松陰神社前」バス停で降ります。
松蔭神社に入る前に目に止まったのは「松浦松洞誕生地碑」です。
松浦松洞誕生地碑
松陰神社の入口に「①松浦松洞誕生地」という碑がありました。最初何の碑かわかりませんでしたが、後に松浦亀太郎と一致しました。
近くにあったを読んでみると、あの有名な松陰先生の肖像画を描いた人、松浦亀太郎(松洞)だったのです。
彼はそのまま画家で終らず志士になったのにはビックリ。松下村塾で松陰先生の話を聞いているうちに、自らも動ねばと思ったのでしょうね。
松浦松洞誕生地碑は左右に2つ碑があります。右側の大きい碑は昭和42年10月、松陰神社維持会建立とあります。
松浦 亀太郎(まつうら かめたろう)とは
天保8年(1837)-文久2年4月13日(1862)。
- 幼少のころ羽様西崖に画法を学び、のち小田海僊に師事
- 安政3(1856)年:吉田松陰の松下村塾に入塾
- 安政5(1858)年:上京した後、江戸に行き、芳野金陵の塾で学ぶ
- 安政6(1859)年:帰国し、5月には松陰が自賛した肖像画を描く
- 文久2(1862)年:久坂玄瑞ら同志とともに上京、藩老長井雅楽の開港論に反対して暗殺しようとしたが、果さなかった
しかし「一事寸功の見るべきものなく、いたずらに時の推移するを思い、何の面目か故郷の人に逢わん」と、粟田宮(青蓮院宮尊融法親王)の正義を慕って粟田山中で切腹した。年26。(京都大学附属図書館 維新資料画像データベースより)
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Matsuura.html
「花燃ゆ」でもありましたが、画家のイメージがありますが、尊王の志士がメインで、さらに絵が上手であるということでしょう。
松浦亀太郎(松洞)作「吉田松陰肖像画」は松下村塾で見られる
松浦亀太郎が描いた「吉田松陰肖像画」は松下村塾で見ることができます。写真は松下村塾内に飾られている吉田松陰肖像画。
その他、僧の月性などの肖像画も描いています。
最後に
「松浦松洞誕生地碑」と松浦亀太郎(松洞)の人物について紹介しました。あわせて本物の「吉田松陰肖像画」を見ることが出来てうれしかったです。
松浦亀太郎(松洞)が松陰神社近くで生まれたということは、松下村塾に入塾するのが自然の流れだったんでしょうね。
「松浦松洞誕生地碑」を見た後、今日メインとなる②松下村塾に向かいます。