先日、堺の「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」や五条の天誅組の史跡を巡ってきました。
そのおかげでより天誅組について興味がより増してきています。
天誅組と言えば大河ドラマなどでもほとんど登場しないことから、幕末志士好きの方でも「天誅組については知らない」という方も多い方と思います。
そこで今回は「天誅組とは?」と題し、幕末にどのようなことをした集団なのか?わかりやすく紹介します。
天誅組とは?
天誅組とは何なのかですが、簡単に言うと(簡単には言いづらいのですが…)「公卿・中山忠光、吉村寅太郎(土佐藩脱藩)を主とした尊皇攘夷集団」のことです。
簡単すぎてわかりにくいですよね(苦笑)。
では、詳細に説明しますと…(すでに知っている場合は、とばして下さい。)
長州藩や土佐藩郷士達は、天皇中心とした政治を行い、外国を打ち払うという尊皇攘夷思想でした。そのため、天皇周辺である公家達と親密に行動するようになります。
その公家達は幕府に攘夷の決行を迫り、幕府は文久3年(1863年)5月10日に攘夷決行をすると公布します。
これを信じた長州藩は下関関海峡を通過するアメリカ船を砲撃し、攘夷決行を始めてしまいました(下関戦争)。
これに招かれたのが中山忠光(後の天誅組大将)です。そして彼と共に行動したのが吉村寅太郎や池内蔵太(いけ・くらた/土佐勤王党、天誅組、禁門の変参加、亀山社中)達でした。
下関戦争で長州藩は敗北。7月、京都に戻った中山忠光は謹慎+侍従の職も剥奪されてしまいます。
8月13日、三条実美の活動により、孝明天皇の大和行幸が決まり公布されました。
大和行幸とは、孝明天皇が攘夷祈願のため、神武天皇山稜(奈良県橿原市)、春日大社、そして伊勢神宮を参詣するというものです。因みにこの計画は、久留米藩の真木和泉によるものです。
吉村寅太郎(土佐藩脱藩)は、松本奎堂(刈谷藩脱藩)や藤本鉄石(岡山藩脱藩)らと共に大和行幸の先鋒として大和国に赴くことを決議します。
8月14日、吉村寅太郎たちは謹慎中の中山忠光を訪ねます。その画策に乗った中山忠光は方広寺で天誅組を結成しました。
天誅組メンバー(名簿付き)
上の写真は五條市の五條史跡公園・民俗資料館に展示されていた「天誅組隊士肖像画」より。
肖像画は右から中山忠光、藤本鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂。
天誅組は、中山忠光を大将とする約40人(土佐藩脱藩17人)の志士で、総裁が吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂の3名、御用人は池内蔵太からなります。
- 主将:中山忠光
- 総裁:藤本鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂
- 御用人:池内蔵太
- 監察:吉田重蔵、那須信吾、酒井伝次郎
- 銀奉行:磯崎寛
- 鉄砲伍長:安岡直行
- 参謀兼記録方:伴林光平
- 小荷駄奉行:水郡善之祐
天誅組のメンバーの詳しい名簿について下の写真3枚を確認してください。
参考:五條史跡公園・民俗資料館「大和五條義挙 天誅組主な役割」より
天誅組の進路
天誅組の進路は以下の通り
- 方広寺(京都)
- 伏見(京都)
- 常安橋から天保山(大阪)
- 堺に上陸
- 狭山
- 五条
- 高取城
- 天の辻
- 十津川
- 鷲家口
以上で、天誅組の説明終わりです。
これら踏まえて天誅組の史跡を巡っていきます(つづく)。