長州藩中心に京都周辺を歩いてみようと思います。まずは木屋町三条に来ました。最寄り駅は京阪三条駅です。
まずは第1弾、①②「佐久間象山先生遭難之碑&大村益次郎卿遭難之碑」と③「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」を紹介します。
佐久間象山先生遭難之碑&大村益次郎卿遭難之碑
三条高瀬川にある橋に一つの石碑があります。そこには①「佐久間象山先生遭難之碑&大村益次郎卿遭難之碑 北へ約壹丁」と書かれています。
決して同じ日に遭難したわけではありませんが、同じ場所だったことから一つにまとめられています。
いつもこの高瀬川を通る度に碑を見ていましたが、これまでずっとこの場所が遭難の地だと思いこんでいました。
しかし、この石碑よく見ると「北へ約壹丁」と書かれているではありませんか。ずっと思いこんでいたこの石碑は、案内版だったのですね(笑)。
では北へ約1丁上がります。1丁は1町とも書き、今の単位でいうと約110mということになります。
ここから約110m北ということは、御池通を越えた辺りです。木屋町通を北に歩いてみるとありました。
②左に「大村益次郎卿遭難之碑」と、右に「象山先生遭難之碑」が並んであります。
「大村益次郎遭難の碑を」拡大します。
高瀬川の向こう側にあるので遠くからしか見えないのが残念です。見上げてないと見逃してしまいますよ。
すぐ横にある象山先生遭難之碑。こちらは佐久間象山の似顔絵もあります。
兵部大輔従三位大村益次郎公遺址
そのまま木屋町通りを上がります。
するともう一つ大村益次郎の石碑③「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」があります。
ここは大村益次郎が襲撃された宿の跡だそうです。連続して石碑がありますね。
明治2(1869)年関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われました。この碑は大村益次郎が襲撃された時の宿所を表しています。
すぐ横の家が一直線、うなぎの寝床になっています。ここが当時、刺客に襲われた宿だそうです。
最後に
「佐久間象山先生遭難之碑&大村益次郎卿遭難之碑」と「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」を歩いてみました。
「佐久間象山先生遭難之碑&大村益次郎卿遭難之碑」は②がその場所で、①が約1丁北と書かれた案内になります。
この木屋町通りは各藩邸があったことから、本当に刺客に狙われる場所ですね。このあたりが幕末から京都の中心だったのがわかりますね。
大村益次郎と言えば、司馬遼太郎の「花神」です。この本を読めば彼の魅力がわかりますよ。
蘭学や医学を学んでいた彼がどのようにして幕末の世に登場したのか。まだの人は、ぜひとも一読を。
次回は④~⑥桂小五郎幾松寓居址、長州屋敷跡、桂小五郎像を歩きます。
短編集「人斬り以蔵」の一話目にも大村益次郎の話があります。あわせてどうぞ。
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