「大阪の長州萩藩蔵屋敷跡に、常安橋から向かってみる」のつづきです。
前回は大阪の①長州萩藩蔵屋敷跡に行きました。
今回は長州蔵屋敷跡地「②三蔵院・高野寺」と「③大村益次郎先生寓地址」を歩きます。
長州蔵屋敷跡地を三蔵院高野寺に
次に(↑古地図・赤紫色の枠)内にある、②高野寺・三蔵院に行きました。
開運山・高野寺(三蔵院)はビルとビルの間にある寺で、かなり窮屈そうに建っています。
人がたくさん行き交いするの場所なので、なかなか写真一枚に収めることができませんでした。
②三蔵院・高野寺と長州藩との関係ですが、明治4年の廃藩置県で毛利敬親がこの長州萩藩蔵屋敷を、高野山総本山「金剛峯寺」に寄進されました。
その後、高野山は三蔵院をこの地に移転して、毛利家歴代の藩主を祀ります。
それ以来、「②三蔵院・高野寺」は長州大師と呼ばれ、参詣者で賑わったそうです。
大村益次郎先生寓地址
次に土佐堀通を西に進みます。なにわ筋を越えて進むと左側に、江戸堀フコク生命ビルがあります。
このビルの左前に「③大村益次郎先生寓地址」があります。すぐ横に説明があります。
それによると、適塾で医学・蘭学を学んでいた時に下宿していた倉敷屋作衛門の屋敷跡だそうです。
この碑は1943年(昭和18年)に大村卿遺徳顕彰会によって建てられました。
大村益次郎はずっと適塾内に住んでいたそうですが、塾頭になってからは倉敷屋作衛門の屋敷に移ったそうです。そこがこの場所になります。
ここからだと長州藩蔵屋敷も近いですし。適塾に行くには少し距離がありますが、幕末の時代からしたら近い方なのでしょうね。
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