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- 「龍馬観音から福山市営渡船のりば、禅福寺・対潮楼周辺を歩く」
- 「鞆の津の商家」、「いろは丸事件談判跡」、「御舟宿いろは」周辺を歩く」
- 「「鞆の浦歴史民俗資料館」を見学。江戸時代古地図から今の景色を比較する」の続きです。
地図では①龍馬宿泊所跡、②対仙酔楼、③龍馬観音、④対潮楼・福禅寺、⑤鞆の津商家、⑥いろは丸事件談判跡、⑦鞆の浦歴史民俗資料館を歩いてきました。
今回は三条実美など七卿が宿泊した⑧太田家住宅になります。
七卿落ちと鞆の浦について
⑧太田家住宅に着きました。鞆の浦に来て一番見てみたかった場所です。
太田家住宅は、「鞆七卿落遺跡」とも言われています。
三条実美ら七卿は、文級3年(1863年)8月18日の政変で、京都を追われ長州に落ち延びます。その道中、この鞆の津に来ています。
土方久元(土方楠左衛門)が七卿に同行しており、その日記「回転実紀」に詳細な情報が書かれています。
土方久元は土佐藩の上士で、武市半平太の土佐勤王党に参加。8月18日の政変で七卿とともに長州に下りました。後、伯爵。
七卿は合計3回鞆の浦に立ち寄っています。
①8月22日午後4時に兵庫の港を出発し、23日の午後8時に鞆の浦で船を降りました。すぐに出向せよと催促されましたが、風雨のため出向できないと船頭は拒否。が、刀を抜き脅迫されたため夜半に強風をおして出発しました。
②元治元年(1864年)7月18日、京に向かうため再び、ここ鞆の浦に到着しています。19日〜20日を太田家住宅(当時、保命酒屋中村屋)に宿泊し、20日の午後多度津に向けて出発しました。この滞在していた時に三条実美は句を詠んでいます。「世にならす 鞆の港の竹の葉(保命酒)を かくて誉むるも めづらしの世や」
③21日に多度津に着くや、7月19日の蛤御門の変の悲報を聞き、22日鞆の浦に引き返し、再び長州に向かいました。
このように①〜③の3度鞆の浦を上陸しています。といっても①と③はほんの一瞬にすぎません。一番長く滞在したのが②で、この時、滞在した時の史料が残っています。
保命酒・中村家(太田家住宅)は、長州藩など参勤交代で西国大名が宿泊する場所としてずっと使用されてきました。そのため、この時も七卿は、安心できる保命酒屋・中村家に宿泊したのでしょう。
太田家住宅(鞆七卿落遺跡)
太田家住宅。看板には「十六味地黄保命酒」、「名酒売捌き所」と書かれています。
正面より「重要文化財・太田家住宅」、「広島県史跡・鞆七卿落遺跡」
ここから右折した所に「いろは丸展示館」があります。そこには大勢の人がおしかけていましたが、この太田家住宅には外観を撮る人はいるものの、ほとんど入る人がいませんでした。
入館に400円するからでしょうか。ここは絶対入ることをオススメします。僕なんて時間があまり無いにも関わらず入ったぐらいですから。
入ると案内の方が丁寧に説明をしてくれます。しかし、僕の場合時間が無かったので(本当はこのような見方は良くないのです。絶対時間をかけて見るべき場所ですね。)、入るや否や「建物の説明ではなく、(時間が無いので)七卿落ちについてだけ教えてください」と話しました。案内の方は丁寧に教えてくれました。
三条実美が宿泊した部屋を案内していただき、今回は七卿落ちを訪ねてきたことと、時間が無いことで特別に写真を撮ることを許可していただきました。といっても数枚ですが…。
三条実美が泊まった部屋。
左に縦書きで”梨堂”とありますが、これは三条実美の号です。三条実美直筆。
保命酒屋の七卿「三条実美公履歴」
上の絵は太田家住宅リーフレットに載っている当時の様子を絵にしたものです。丁度、中村屋に入った時の様子でしょうか。挨拶をしている人や鞋を脱いでいる人が描かれています。
入口は現在と同じく「十六味地黄保命酒」とあり、もう一箇所は「御用保命酒所、備後友 中村吉兵衛」と書かれています。
左下には「備後国鞆津に…保命酒を旅…土方楠左衛門…」とあります。この入口は当然ですが、現在と全く同じです。ぜひともこの絵と今の建物が同じであることを見比べてください。
案内の方に昔、「三条実美と七卿落」という特別展があり、その時に作成された図録を見せていただきました。
どうやら次に向かう「いろは丸展示館」にまだ売ってるいるかもしれないという情報を得て、ぜひとも手に入れないとって気持ちになり、次に急ぐのでした。
そして、鞆の浦を去る時間が刻一刻と迫っています。
参考史料:重要文化財ー太田家住宅リーフレット
(つづく)