前回「勝海舟の大坂寓居跡である専称寺は、今の大阪のどのあたり?」の続きになります。
大坂海軍塾跡・勝海舟寓居跡の専称寺があったという北鍋屋町と南鍋屋町周辺を歩いてきました
堺筋の淡路町1丁目から北鍋屋町(専称寺)に向かう
堺筋の淡路町1丁目から西に進んでいきました。この道路から西が淡路町2丁目です。
この辺りはオフィスビルが立ち並んでおり、残念ながら江戸時代の名残は全く見られません。あるのは碁盤の目をした道路だけしょうか。
上の古地図と比較しても、街の名前だけ残っていることがわかります。
淡路町1を西に直進。ここからは余談ですが…。
歩いていると、一箇所だけ異質な空間があります。それは「船場ビルディング」という名の建物でした。
大正時代に建てられたようで、外観は地味ですが、どうしてもこのレトロ感が気になり少し中に入ってみました。
すると光が1階まで入るよう工夫されており、外観よりむしろ内観にセンスを感じさせる建物ですよ。この周辺は見所があまりないので、チラっと見に行かれることをオススメします。
登録有形文化財。淡路町2丁目
入ってすぐ目にする独特の空間。上から光が入り開放感があります。
専称寺・淡路町3丁目(北鍋屋町)に到着
ついに目的である淡路町3丁目(北鍋屋町)に到着。しかし、う〜ん、予想以上にオフィスビルのみって感じです。
ちなみにに下の写真が、①大坂海軍塾跡で勝海舟寓居跡(専称寺)です。特徴が何もないですせめて碑や説明文を建ててください。
大坂海軍塾跡はこのあたり。現在はスワンビル
スワンビルから西側・淡路町3丁目方面。AAホールがあります。
スワンビルから南側。スワンビル、ノリタケビルと続いています。
この淡路町3丁目から南に下ると、瓦町3丁目になります。ここは江戸時代、南鍋屋町と言われていました。
淡路町3丁目(北鍋屋町)と瓦町3丁目(南鍋屋町)の境。
南鍋屋町には近藤長次郎ゆかりの地・大和屋弥七邸があった場所
この南鍋屋町には近藤長次郎ゆかりの地、②大和屋弥七邸があった場所です。
近藤長次郎は海舟塾に坂本龍馬と入り、その後、近くにある大和屋弥七の娘・お徳と結婚しました。仲人は勝塾塾頭の佐藤与之助が務めたそうです。後、百太郎が生まれました。
場所は瓦町3丁目にコンビニ・ファミリーマートがあり、その斜め前辺りだと思いますが、正確にはわかりません。現在の日本毛繊株式会社辺りでしょうか。
「大和屋弥七邸跡」はこのあたり?コンビニの斜め前の「日本毛織株式会社」。
最後に
北鍋屋町と南鍋屋町周辺を歩いてきました。この2箇所には石碑や案内板を建ててほしいなと思いました。
周辺はオフィスビルばかりですが、石碑ができると少しは雰囲気も変わってくると思います。折角、龍馬伝で紹介されたので、このタイミングでお願いします。
最後に専称寺ですが、1845年や1863年の古地図には載っていません。なぜ?
後にこのお寺は兵庫に移っていることは知られていますが、それ以前の古地図に載っていないのはなぜなのでしょうか?
関連:[土佐藩]幕末の史跡一覧に戻る