京都・同志社大学前ににある「薩摩藩邸跡」碑を見てきました。
この屋敷は別名・二本松屋敷と呼ばれていて、同志社大学北にある相国寺から借り受けてこの場所に藩邸を造営しています。
京都「薩摩藩邸跡」碑を歩いてみました。幕末の古地図を使って簡単な歴史的説明も紹介します。
京都「薩摩藩邸跡」碑
同志社大学今出川キャンパスにやってきました。入口前に「薩摩藩邸跡」碑があります。
京都の薩摩藩邸は最初、中京区錦東洞院でしたが、そこは手狭になったため、文久2年(1862年)にこの場所に大きな藩邸を設けました。
敷地の広さは5805坪(19000㎡)ありました。この場所に建物が9棟とたくさんの土蔵が立ち並んでいたそうです。
参考:「此付近薩摩藩邸跡」説明文より
以前の同志社大学はこのように後ろに壁がありましたが、今はリニューアルして校舎がより見えるようになっています。
「薩摩藩邸跡」碑の碑のすぐ後ろに説明文があります。
文久2年(1862年)9月、薩摩藩が相国寺から土地を借り受け、京都に藩邸を造営する。同志社大学今出川キャンパスの約3分の2を占める広大な敷地の藩邸が御所に隣接して誕生した。
(中略)
大政奉還後、戊辰戦争が勃発。その直後に会津藩士・山本覚馬(新島襄の妻・八重の兄)は捕らえられ、この藩邸に幽閉された。その折にまとめた建白書(通称「管見」)が、京都の近代化の指針として後に影響を与えた。
明治時代になると、薩摩藩邸は京都府に接収、民間に売却された。そして人手を経て、新島襄が購入した。
京・薩摩藩邸(二本松屋敷)説明文より
今ある同志社大学の2/3を占めるほど広大な藩邸であったことがわかります。
また、大河ドラマ「八重の桜」でもありましたが、山本覚馬と妹の八重、そして夫の新島襄が関係して、この場所に同志社大学が誕生するあたりも歴史の面白さだなと思いました。
古地図で京都「薩摩藩邸跡」を確認
古地図で薩摩藩邸跡を確認してみました。石碑がある後ろにある説明文にも古地図の表記がありますが、今回は私が持っている古地図で確認してみます。
この古地図は「慶応四年 京都細見図」なので、まさに幕末当時の京都がわかります。
中央にあるのが薩摩藩邸で、この古地図では薩州屋敷と書かれています。横が今出川通、縦に烏丸通ももちろんあります。
この薩摩藩邸は南に京都御所があり、北に相国寺(しょうこくじ)があります。どちらも大きいですね。
先程の説明文にもあるように、この薩摩藩邸は元々、相国寺の土地でしたが、薩摩藩が借り受けました。借り受けて造営したのがこの古地図からもよくわかります。
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